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最近のちょっとしたブーム、ハイ、京極堂シリーズ、「京極夏彦の百鬼夜行」シリーズです。

最初はおじいちゃんの所蔵から姑獲鳥の夏(うぶめのなつ)を興味半分から読み始まった。正直、最初のところはつらい、っていうか、読みつらいです。

心、意識、精神、脳について弁証するところがいきなりバンっときた。量子力学の観察結果ランダム化にも関わってきた。西垣の基本情報学と河本英夫訳のオートポイエーシスを前にゼミで読んだから、辛うじて付いていけるようになるが、教科書の叙述みたいな言葉は、やはり小説としての面白みがない。

 

しかも、京極シリーズの特徴ともいうか、わりと、犯人は最初からはっきりしている。


姑獲鳥のときも、登場キャラクターが揃えた途端、久遠寺のお姉さんのほうが怪しいと感じるようになる。なんとなくこの人こそ犯人じゃないかと確信ができた。

そんなことを知人にいうと、「それじゃ推理小説として失格じゃないか」といわれ、確かにそうかもしれない。しかし、犯人探しというより、京極シリーズの面白みと肝(私にとっての)はむしろ、京極のセリフ通り「憑き物落とし」にある。

真実はもともとそこに存在してある。しかし登場人物は様々な見方や立場によって、真実から目を逸らしたり、向き合えないことがあったりする。京極と いう探偵みたいなポジションを取っている「陰陽師」は、推理、いや、詭弁という表現もありかも、それを使い、事件に絡まっている人々の「憑き物」を落とし ていく。

だから、読者から見れば、その「落とす」プロセスこそが重要であり、「落とした結果」(=犯人を明確にする)がかえって重要でなくなる。

そして、京極夏彦という作者もまた、小説を通して読者に「憑き物」を落としながら、新たな「憑き物」をつけさせていく、と私は考えている。一般的に思 われている「常識」や「社会的観点」を落とし、京極自身が主張する見方や論説をつけさせるのだ。軽くマインド・コントロールでもあるように見えるね。

今は魍魎の匣をアニメと同時に読み終え、狂骨と鉄鼠はまだ入手できないまま、とりあえず「絡新婦の理」を引き続き読んでいる。

「姑獲鳥」と比べると、書き方は明らかに変わったなと思い、最初からの主張論述を減り、物語の筋を幾つかが同時展開させ、膨らせてから「ことわり」を持って収束していくようになる。

まだ読み終わってないので、終わったらまた感想をまとめよう。

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