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當然,還是以日文書寫 在課堂上也是以日文發表....

ルーマンの言う信頼には、人格的な信頼とシステム的な信頼があって、第六章にてまず人格的な信頼について述べる。
この章の中心テーマは「人格的な信頼」なので、この章で出てきた「信頼」と言う言葉はとりあえず「人格的な信頼」として理解しようとする。
特に惹かれたのはp80で、信頼の形成において、「義務を超えた功績」という「独特の前払い」が必要っといったところ。
この様な独特な前払い、しかも「自分が傷つきうるという事が信頼関係を進行させるための手段」などは「人格的な信頼」の特徴だろうと読む。
そこで思い出した例は、昔読んだ物語「尾生の信」ということであった。
最初は「荘子」の中にあったストーリー、尾生はある女と橋の下で会う約束した。けれど女は約束の時間が過ぎてもこなかった。段々川の水があがってきたにも関わらず、尾生は彼女が必ず来ると信じて待ち続けた。やがて橋の柱を抱いて溺死になってしまった。
後にこのストーリーは「信義」の表徴になったが、私はただの融通がきかないバカだと思った。しかし、この極端の例で、「義務を超えた功績」というのはどんなモノか少し理解できたと気がする。ここの功績という訳語は適切かどうか分からないが、法の面とは関係なく「徳」として考えたら理解しやすいかも。
だからp81の「信頼関係は、事前に規範によって指示されるのではなく、事後的に基準化されるのである」のことも理解でき、そして、なぜこの「義務を超えた功績」の機能は信頼の維持条件であり、規準化しにくいのかも分かった。(皆に尾生みたいな行為を要求することが不可能だ)
尾生はもちろん待ち続けない選択もあり、他の場所、たとえば橋の上で待つこともあり、ただし彼はそう選択しなかっただけ。
p83の「信頼されるようになるであろう人が、信頼を裏切る機会を与えられ、そしてそれを利用しないときなのである。」つまり、ただ利用しないだけなの。
この様な限界や特徴に繋いで、現代社会には人格的な信頼だけでやっていけないので、システム的な信頼の必要性が出てきた。

授業で分かった概念:
p74
信頼は行為の経験によって支えられるのだが、その行為は、人格であることの表現として現れるのでなければならず、人格であることを実証するのでなければならない。
人格に帰すことが出来るのは、偏に「自由」な行為として制度化されている行為だけである。
信頼が生成しうるためには、そして信頼がその機能を果たしうるためには、まさしく自由が一方の前社会的な形態から 他方の制度化された形態へと移し替えられていなければならないのである。


這次有點小高興~~~因為被老師稱讚引用的故事很讚
老師說以後他演講也來用用這個例子
正因為極端 所以容易明白


人是需要鼓勵的~~~ほめてほめて!!!
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